「渋すぎる」パッケージをリスに交代 老舗菓子店3代目が貫いた理念
ベテラン従業員におぶわれて育つ
――子どものころは、家業についてどう思っていましたか。
菓子工場の2階に家があり、仕事と家庭が密着していました。従業員も家族のような雰囲気で、ベテラン従業員が私をおぶって、お菓子づくりをすることもあったそうです。
小学6年生ごろから、自然と家業の手伝いをするようになりました。当時は菓子製造の他に釜めし・甘味の食堂と、ホテルを経営しており、まず始めたのは皿洗いです。ホールで働く人たちを見ながら「オーダーを取った時に、他のテーブルの食器をさげて戻ってきたら効率がいいのに」と思っていました。飲食事業の担当だった母がよく「手ぶらで帰ってこないように」と言っていて、その思考が刷り込まれたのかもしれません。
高校生になると、ホテルのベッドメイキングや清掃を手伝うようになります。そこでもスピードと正確さを意識していました。年末などの繁忙期には、お菓子の店頭販売の手伝いをすることもありました。
――高校卒業後、すぐに家業に入社したのですか。
英語の専門学校と、英国留学を経て22歳で入社しました。子どものころから手伝うなかで、自然と家業への入社を決めてはいたものの、「入社前に、家業につながりがあることを学んでおきたい」と考えたからです。ホテルに外国人客が増えていたので、英語でコミュニケーションがとれるようになりたいと思いました。入社後に、英国で知り合った妻と結婚し、妻も鎌倉紅谷に入社しました。
工場に住み込み仕事を覚える
――入社時の会社の印象はいかがでしたか。
仕事と家庭が一緒の状態は変わっていませんでした。いち従業員として入社した直後は、妻と工場の2階に住み込んで、主にお菓子の製造を担当しました。入社前は広告代理店に勤務していた妻から、「思っていた会社経営とは少し違う」と言われることもありました。私にとっては子どものころから当たり前の環境に対する、妻からの意見は、多くの気づきを与えてくれました。
――2003年に、専務に就任したのですね。
就任時は24歳でした。社長の父から「明日から専務ね」と任命されたものの、正直、専務が何をするのかもわかっていませんでした。会社の事業は、飲食とホテルを徐々に縮小し、お菓子の比重が大きくなっていました。
――心境の変化などはありましたか。
お菓子の製造や営業、配達と一通り経験していくなかで、徐々に「自分で決めて動けた方がスムーズだな」と感じることが増えました。それまでは、何かあれば都度、父に相談して決裁をもらう流れでした。
祖父と起業した父は、2代目でありながら創業者でもあり、何か相談しても、「よし」と言うまでに少し時間がかかる時がありました。既に高齢で現場を離れていた父にかわって、私がお客様の声を店舗運営に反映したり、職場環境を改善したりと、「すぐに実行すべきことを自分の判断で行いたい」という気持ちが高まっていきました。
「従業員のなかで最年少」の社長に
――社長交代は突然だったそうですね。
29歳で社長に就任しました。父が脳梗塞で倒れたからです。会社の経理を少しずつ引き継ぎ始めたころでしたが、そこから引き継ぎができない状態になり、自分で実務を重ねながら経営を進めるしかありませんでした。
――従業員の反応はいかがでしたか。
社長就任時、30人ほどいる従業員のなかで私が最年少でした。次に若い従業員は私よりも13歳年上で、ベテランの域に入りつつありました。ただ、私が子どもの頃からいる従業員たちとは、専務時代に信頼関係ができていたので、スムーズに受け入れてくれたと思います。
「リスを外に出す」パッケージ変更
――社長就任後、最初に何を手掛けましたか。
お菓子のブランドリニューアルです。当時7種類ほどあった全商品のパッケージを変更しました。
――大きな変更ですね。なぜ変えようと思ったのですか。
理由は2点あります。1点目は、生産効率の改善です。それまでは過剰包装の傾向がありました。たとえばロングセラー商品の「鎌倉だより」だと、個包装して、箱に入れて、包装紙でラッピングして、さらにその上に掛け紙をして、金色のひもをかけて完成、というスタイルでした。特別感はありますが、全て手作業で行われるため、猛烈に手間がかかります。特別感を損ねないようにデザインを工夫することで、包装紙1枚で対応できる仕様に変更しました。
――2点目は何でしょうか。
もうひとつのロングセラー商品「クルミッ子」を、より多くのお客様に届けたかったからです。妻から「このパッケージだと、私たちの世代の女性が手に取ってくれるとは思えない」と言われたのがきっかけでした。
――どんなパッケージだったのですか。
「源頼朝」が描かれたパッケージです。先代の父が頼朝公の人生に感銘を受け、1984年のクルミッ子の発売からずっとパッケージに採用していました。ただ以前から、「渋すぎる」という声が販売現場からもあがっていました。鎌倉らしさは十分に表現できているものの、私たちが最も大切にしている「おいしいお菓子」を伝えられているのかは疑問でした。
――確かに、中身は想像しにくいですね。
お菓子は、手に取ってもらって、食べてもらわないとおいしさが伝わりません。ロングセラー商品ではあるものの、当時クルミッ子を買ってくれていたお客様は、ほとんどが60~70代の女性でした。そのお客様たちを大切にしながら、もう少し下の年代のお客様にも届けていかないと、いずれ先細りするという気持ちもありました。
――それで愛らしい「リス」に変更したのですね。
リスは、もともと個包装のパッケージのイラストでした。箱の中に、いることはいたのですが、頼朝公の陰に隠れた存在でした。社内では「リスを外に出してあげよう」を合言葉に、プロジェクトを進めていきました。
土産物店からは反対も
――ご両親の反応はいかがでしたか。
相談は、しませんでした。ほぼ事後報告です。父がとても大切にしていた頼朝公のパッケージの変更は反対されると思ったし、私には「変えないという選択肢はない」という決意がありました。幸い、従業員にリサーチしたところ好意的な反応だったので、現場の声を聞きながら、パッケージの設計を進めていきました。
――リニューアルはどのような方針で進めたのでしょうか。
頼朝公からリスへの変更にあたり、最も大切にしたのは「おいしいお菓子を届ける」ことです。父から引き継いだうちの経営理念で、その点にブレはありません。うちは鎌倉で創業した会社ですが、鎌倉らしさを追求するというよりも、おいしいお菓子を届けることを追求してきました。お菓子の味はそのままで、その届け方を最適化する手段として、パッケージ変更をしようと考えたのです。変更を決めてから約8カ月後、2008年に新パッケージでの販売がスタートしました。父に報告すると「任せるよ」と言ってくれました。
――地元の反応はいかがでしたか。
土産店からは反対されました。「このデザインでは鎌倉の土産物として売れない」と言うのです。「おいしいお菓子を届けるために、必要な変更なのです」と、私たちの理念を説明していきました。
客層が変化しヒットに
――変更後の販売はいかがでしたか。
ヒットしました。手に取ってくれるお客様の層が明らかに変化し、女性誌などのメディアにも取り上げられました。パッケージも含めたクルミッ子の完成度が評価されて、2013年には「第25回 神奈川県名菓展菓子コンクール」で最優秀賞を受賞しました。リニューアルから5年で販売額は約2倍になり、反対していた土産物店からの注文も増えました。
――ヒット後の注文増には、どう対応しましたか。
クルミッ子の専用工場を立ち上げました。それまでの工場が老朽化していたこともあり、タイミングとしては今だと思い決断しました。
生産効率も、小さなところから少しずつ見直しました。当初、クルミッ子は3~4人の職人たちが、のんびりと作っていました。ヒットにともなって生産工程を見直し、クルミッ子担当も増やしていきました。それまでの主力商品「あじさい」に替わって、クルミッ子が看板商品になったのです。
※後編では、事業規模拡大にともなう組織作りと、コロナ禍での売り上げ増の背景に迫ります。