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May

日本初の特例子会社「シャープ特選工業」創設の背景にあった創業者の強い想いとは

企業名は合資会社「特選金属工場(現シャープ特選工業)」。

現在は、電子デバイスやディスプレイ、複合機といったデジタル機器の精密部品の補修・加工・修理をはじめ、名刺作成や印刷、書類の電子化、清掃、キャリア教育支援などを手がけている企業です。

大手家電メーカー「シャープ」の創業者としても知られる早川徳次氏によって設立された同社ですが、その立ち上げの背景には「目の不自由なお婆さんに恩返しがしたい」という強い想いがありました。

目の不自由なお婆さんから得た恩を世の中に返したい。日本初の特例子会社のルーツ

今回、取材を受けてくださったのは、シャープ特選工業の代表取締役を務める早川社長と、ビジネスソリューション部 オフィスソリューション課の高橋主任。

シャープを創業した早川徳次氏の孫の早川社長が、日本初特例子会社のルーツを明かしてくれました。

1893年に生誕、両親が病弱だったため、1歳11か月で養子に出されていた徳次氏は、小学校を2年足らずで辞めさせられ、夜中まで内職を強いられる過酷な日々を送っていました。

1901年、そんな徳次少年を不憫に思い、救いの手を差し伸べてくれたのが、近所に住む井上さんという目の不自由なお婆さんでした。

井上さんは、養父母に「学校にもやらず内職させるなら仕事をおぼえさせなさい」と口添えをし、杖をつきながら幼い徳次氏を丁稚奉公※先まで連れて行ってくれたのです。※年少のうちから商店などで下働きとして勤めはじめること

徳次は奉公先で金属細工職人として10年ほど働き、1912年に穴がいらないベルトのバックル「徳尾錠」を発明しました。

これを機に独立し、金属加工業を開業、1915年にシャープペンシル(早川式繰出鉛筆)を考案したことが現在のシャープの礎となっています。

その後、1923年に起きた関東大震災によって、順風満帆だったシャープペンシル事業と愛する家族を失う悲哀の中、帯同を望んだ社員と、徳次氏は大阪で再起。

事業再開からわずか1年後の1925年には日本初の鉱石ラジオ受信機の開発に成功し、「当初いち早い販売、製品保証と適正な価格」をモットーにエレクトロニクス企業として歩み始めたのです。

それから約20年後のこと。ある日、社会福祉法人日本ライトハウスを創設した岩橋武夫氏から一通の手紙が届きました。「失明した軍人たちに電気についての講義と実地訓練をしてほしい」。徳次氏は、二つ返事で快諾したそうです。

丁稚奉公先を紹介してくれた井上さんに恩返しがしたいと考えていたそうですが、関東大震災で行方がわからなくなってしまっていました。

岩橋氏からの依頼がきっかけとなり、「井上さんから受けた恩を世の中に返していこう」との想いが込み上げてきたようです。

1944年から戦争で目を失った失明軍人たちの雇用を開始し、彼らが働く金属プレス加工工場を「早川電機分工場」と名付けて開設。これが、シャープの障がい者雇用の始まりです。

早川電機分工場は、早川電機工業(現シャープ)から1950年に完全に独立し、元失明軍人の8人が経営する合資会社「特選金属工場(現シャープ特選工業)」として新たに創設されました。以来、日本の戦後復興を象徴するシャープ商品の部品製造を担っていました。

「何かを施す慈善より、障がい者自身が仕事をして自助自立できる環境をつくることが福祉につながる」との考え方は、徳次自身が手に職を付けることで生き抜いてきた経験があるからに他なりません。

1960年には「身体障害者雇用促進法」制定に伴い、障がい者の適応訓練指定工場となり、早くから職業訓練の場を提供。

そして1976年、「障がい者の雇用の促進等に関する法律」において「特例子会社制度」が開始されると、翌1977年に日本第1号の特例子会社として認定を受けました。

目の不自由な井上さんから受けた恩。

それを決して忘れず、すでに多くの障がい者を雇用していた実績が社会的に認められたのでした。

「何糞」の精神から生まれる創意工夫。誰もが働きやすい環境が根付く

徳次氏の障がい者福祉へかける強い想いは、今も脈々と受け継がれていると早川社長は言います。

人によってできることとできないことがございますが、それが個性です。

社員一人ひとりの特性に合わせて「できないことをどうやって補うのか」「できることをどうやって伸ばすのか」を考えながら、仕事の仕方に創意工夫を重ねて助け合っています。

そのことを印象付ける書が、食堂兼集会室に飾られていました。額に収められている「何糞」という力強い言葉は、徳次氏の直筆です。

日本初の特例子会社「シャープ特選工業」創設の背景にあった創業者の強い想いとは

「何糞」が表しているのは、何か問題が生じたときに逃げずに立ち向かっていく精神です。

「幸せな人生へ向けてチャレンジ精神を持ち続けること」と教えられました。

聴覚に障がいがある高橋主任も“何糞魂”に奮い立っているひとりです。

聴覚障がいがある者と健聴者の間には、得られる情報に大きな差があります。音のある世界では多くの情報が飛び交っていると思いますが、私にはそれを察知することが難しい。わからなくて不満なのではなく、それを知ることができないのです。

私にとっての「何糞」とは、聞こえる人と同じように働きたいという原動力を与えてくれる言葉。一生懸命に働くことで、聴覚障がいがある後輩たちに希望を与えられるようになるのが私の目標です。

高橋主任は、聞こえないハンディキャップをカバーするため、リアルタイムで音声を文字化するソフト導入の必要性を会社に提案しました。提案は受け入れられましたが、このときに心がけたことがあるそうです。

ソフトの導入にあたっては、聞こえない私たちの要望を優先するのではなく、マイクで話す健聴者にとって使いにくくないか、車いすを使う社員にとって配線が邪魔にならないかといったように、職場全員の使い勝手にも気を配りました。

また、誰もがわかりやすい言葉と絵や写真を用いて手順書やマニュアル動画を作成し、業務の効率化にも貢献。その品質には、早川社長も太鼓判を押します。

障がい者と健常者の双方が快適に働くためには、どうすれば良いのか。「何糞」の精神から生まれる創意工夫は、シャープ特選工業で“当たり前”のように見られる光景だと高橋主任は力を込めます。

当社の経営方針のひとつに「共生の理念」がありますが、そういった文化が当社には“当たり前”に根付いています。働く仲間が困っていれば気軽に声をかけ、一緒に解決策を考えられるような環境です。

外部の方からは「素晴らしい」と言っていただけますが、「当たり前なんです」とお伝えしたい。私は障がいがありますが、配慮のある環境が自然で、当たり前になっているためストレスを感じずに働くことができています。

このような“当たり前”の環境は、前身の特選金属工場創立以来、小さな改善の積み重ねによって育まれてきたのでしょう。

車いすの社員が利用しやすいように本棚を職場の真ん中に移動したり、物事を頭の中で整理するのが難しい傾向にある精神障がい者のためにホワイトボードを活用したりと、高橋主任がこれまで提案してきたことは枚挙に暇がありません。

試行錯誤を重ねる中で新しい発見があるのもおもしろいですし、仲間の作業負担を軽減できたときはやりがいを感じますね。

もちろん、会社としてもより良い職場づくりを推進。所属長や職場リーダー、人事労務担当者が見守る「サポーター制度」や、相談窓口の設置などを通して、能力育成と生活の安定を支援しています。

「誰にでもチャンスがある。変わらない恩返しを胸に、多様な個性が輝きあう会社へ!

2030年までに全世界で達成を目指すSDGs(持続可能な開発目標)においても障がい者雇用について触れられていますが、シャープ特選工業は2012年度からシャープの内部統制部と共にキャリア教育支援活動を実施してきました。

全国の特別支援学校へ訪問して授業(出前授業)に伺ったり、職場見学会や講演会を開催したりして、生徒さんたちに働く心構えや意義をお伝えしています。

こういった活動は、継続しなければならない重要なもの。現在は感染症対策で対面実施が難しい状況ですが、オンライン開催も取り入れながら今後も続けていきたいと考えています。

また、下降傾向にある障がい者の就労定着率を上げていくには、「福祉との連携」も重要であると早川社長は指摘します。

障がい者雇用を進展させるには、従来の枠組みにとらわれず、行政・教育機関・企業と共に、障がい者の雇用をますます広げられるよう努めていくことが大切であると考えています。

「多様性の時代に、個性を伸ばし社会へ貢献する」と締めくくった早川社長。

多様な個性が輝きあう、働くことが喜びにつながる会社へ。掲げる企業ビジョンには、70年前から変わらない徳次氏の恩返し(社会への貢献)が宿っているのです。

シャープ特選工業の詳細はこちら

Photo:photographer_eringi

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